LOGIN婚約発表を前倒しにする旨を正式に各国へ通達してから、三日が過ぎた。
多くの国から祝辞が届いた。
だが聖教会からの返答だけは、まだ届いていなかった。 その沈黙が、かえって次の一手を予感させた。 窓の外では、朝の光が、いつもより白く、庭の敷石を照らしていた。 宮の廊下を行き交う侍女たちの足取りにも、心なしか、いつもより慎重さが滲んでいるように見えた。 誰もが、何かを待っている。 そんな空気が、宮全体を薄く覆っていた。「殿下。アーデルハイド王国より使者が」
ガイル様が緊張した面持ちで報告に来た。
手にした書状には、見覚えのある聖教会の封蝋が押されていた。「聖教会の名代として、聖女候補ミナ・レンフィールド様がこちらへ」
私は息を止めた。
「ミナさんが直接」
「はい。婚約発表への正式な祝辞を携えて、と」
祝辞。
その言葉の裏に何が隠されているのか、想像もつかなかった。 指先が自然と冷たく婚約発表から、三週間が過ぎていた。宮の日々はようやく落ち着きを取り戻していた。各国からの祝辞への返礼も一段落し、妃教育も新しい段階に入っている。窓の外では、初夏の気配が、庭木の緑を濃くしていた。廊下を行き交う侍女たちの足取りにも、以前のような張り詰めた空気はなく、時折、笑い声さえ聞こえてくるようになった。穏やかな日々だった。少なくとも、表面上は。「殿下。奇妙な報告が続いております」朝議の場でガイル様が眉根を寄せて切り出した。「奇妙、とは」アルヴィス様が問い返す。「聖教会関係者の失踪が、この十日で三件。いずれも忽然と姿を消しております」私は思わず身を乗り出した。「失踪ですか。事件性は」「それがはっきりしないのです」ガイル様は手にした書類に目を落とした。「争った形跡も、連れ去られた形跡もございません。まるで本人の意志で、静かに消えたかのように」「三件とも共通点は」アルヴィス様が尋ねた。「はい。いずれも、バルドウィン大司教に近しい立場の者でございます。教会の資金の流れを管理する会計官、地方への通達を担う書記官、そして」ガイル様は一拍置いた。「聖教会付きの、監視役を務めていた者です」その言葉に、朝議の間の空気がわずかに張り詰めた。「監視役というのは」私が問うと、ガイル様は答えにくそうに続けた。「聖女候補ミナ様の身辺を、常に見張っていたとされる者でございます」私は息を呑んだ。ミナを見張っていた者が消えた。その事実の意味を、うまく整理できずにいた。「もう一件、ございます」ガイル様が別の書類を取り出した。「東部のヴァイセン伯爵家。先の婚約発表の場で態度を保留していた家のひとつでございます」「その家が、どうした」「先日、伯爵の不正が暴かれました。教会からの資金援助を私的に流
婚約発表から五日が過ぎた頃だった。「明日、時間を取れるか」夕食の後、アルヴィス様が唐突にそう言った。「明日、ですか」「一日空けてほしい。予定は入れないでくれ」「それは構いませんが……何かございますか」彼は答えなかった。 ただ、少し困ったような、けれど隠しきれない何かを含んだ顔で視線を逸らした。その表情が珍しくて、私は思わず彼を見つめてしまった。 いつも先を読み、迷いなく物事を決める人が、今は明らかに言葉を選びかねている。「――秘密ですか」「そういうことにしておいてくれ」*翌朝、彼が用意していたのは質素な二頭立ての馬車だった。紋章もなく、装飾もない。 護衛も最小限で、シェラすら同行しなかった。「どちらへ」「行けば分かる」その言い方に、私は少しだけ意地悪をしたくなった。「殿下ともあろうお方が、行き先も告げずに婚約者を連れ出すとは。攫われたと騒がれても、文句は言えませんね」「――攫っているつもりだが」さらりと返されて、今度は私の方が言葉に詰まった。彼は窓の外を見たまま、こちらを見ようとしない。 けれど、その耳の縁がわずかに赤いことに、私は気づいてしまった。馬車は帝都を出て、緩やかな坂道を登っていった。 車輪が石を弾く音が、規則正しく続く。 窓の外の景色が、石畳から土の道へ、建物から草地へと変わっていく。やがて、馬車が停まった。*降り立った先は、帝都の外れにある小さな丘の上だった。見覚えのある場所だった。丘の斜面を白い花が埋め尽くしている。 タリアの花。 あの日、二人で見たのと同じ景色が、季節が一巡した今、また同じように広がっていた。「――ここ」「もう一度見たいと言っていただろう」彼が手を差し出した。私はその
婚約発表から三日が過ぎた。宮はまだ余韻の中にあった。 各国の使者たちが順に帰路につき、装飾が少しずつ片付けられていく。 祝宴の熱気は引いたが、その代わりに、確かな手応えのようなものが残っていた。各地から届く書状の内容も明らかに変わっていた。 以前は様子見の色が濃かった文面に、今は具体的な提案が並ぶようになっている。 通商の再開についての打診、次の交易路についての相談。 グレンツ侯爵が最初の旗を掲げたことで、動き出した歯車があった。「東方三国のうち、二国が通行税の引き下げに応じました」朝議の場でガイル様が報告した。「聖教会の影響下にありながら、独自の判断を下したことになります」「教会の締め付けに、綻びが出始めたということか」アルヴィス様が地図に目を落とした。 赤い印のいくつかが、既に消されている。「そう見てよろしいかと。婚約発表の場で、帝国貴族が公然と支持を表明したことが、各国に伝わっております」私はその報告を聞きながら、あの夜の広間を思い出していた。一人が旗を掲げ、それに続く者が現れる。 動き出した流れは、思っていたよりも遠くまで届いていた。*その日の夕方、私は自室で書状の整理をしていた。積み上がった羊皮紙の山を、一枚ずつ確認していく。 祝辞への返礼、今後の予定の調整、細々とした事務。 婚約が成立したからといって、日々の仕事が減るわけではなかった。扉が叩かれたのは、日が沈みかけた頃だった。「――お嬢様。よろしいでしょうか」シェラの声だった。その響きに私は手を止めた。 いつもの落ち着いた声とは、明らかに違っていた。「入って」扉が開き、シェラが入ってきた。一目で分かった。 彼女の顔が蒼白だった。「シェラ。どうしたの」「――お伝えせねばならないことが」彼女は後ろ手
拍手が鳴り止んだ後、大広間は祝宴の場へと姿を変えた。楽団が控えめな旋律を奏で始め、給仕たちが銀の盆を手に人の間を縫っていく。 張り詰めていた空気が緩み、あちこちで談笑が生まれた。 杯を打ち合わせる音、衣擦れの音、遠くで上がる小さな笑い声。 それらが混ざり合って、広間全体に穏やかなざわめきを作っていた。けれど私は気づいていた。まだ終わっていない。 教会の名代は退いたが、この場にいる人々が本当に何を考えているかは、これから分かる。 祝いの言葉の裏で、誰もが計算をしている。 この婚約を認めるか、様子を見るか、あるいは距離を置くか。 その判断が、今この瞬間、無数の頭の中で進んでいるはずだった。「――ヴィオレット嬢」背後からしわがれた声がした。振り返ると、白髪を撫でつけた初老の男が立っていた。グレンツ侯爵。 あの夜会で、私に「魔王です、でしたか」と笑いながら問いかけた人物だった。 あの時と同じ、値踏みするような笑みを浮かべている。 けれど、目の奥にあるものが明らかに違っていた。「侯爵閣下」「ご記憶いただいていたとは、光栄でございますな」彼は手にした杯を軽く揺らした。 琥珀色の液体が、シャンデリアの光を受けて揺れる。「先ほどの応酬、拝見しておりました」「お恥ずかしいところを」「いいえ」侯爵は、首を横に振った。「見事な切り返しでございました。教会の名代を、あれほど鮮やかに黙らせた者を、私は他に知りません」その言葉に、周囲の貴族たちが耳をそばだてるのが分かった。侯爵は、そこで声の調子を変えた。 大広間に響くほどの、明瞭な声だった。「この場にて、グレンツ侯爵家の立場を明らかにしておきたい」談笑が途切れた。視線が一斉にこちらへ集まった。 楽団の旋律だけが、その静寂の中に取り残されたように流れ続けている。
朝から宮は異様な熱気に包まれていた。回廊を行き交う従者たちの足音、磨き上げられた床が反射する光、庭から運び込まれる花の匂い。 すべてが今日という日のために整えられていた。「お嬢様。お支度が整いました」シェラの声に、私は姿見の前に立った。深紅のドレスだった。 裾と袖口に金糸の刺繍が施され、動くたびに光を弾く。 首元は詰まり気味で、露出は最小限。 けれど、その分だけ生地そのものの上質さが際立って見えた。「――綺麗ですよ。お嬢様」シェラが静かに言った。その声に微かな震えがあった。「シェラ」「失礼を。年甲斐もなく」彼女は目元を拭い、それから、いつもの完璧な侍女の顔に戻った。「本日のお相手は、大陸中から集まった方々でございます」シェラは私の背後で髪飾りの位置を直しながら続けた。「東方三国、南方の海洋諸国、そして――聖教会の代理人も」「教会も来るのですね」「はい。婚約発表への出席は、当然の権利でございますので」その事実に、胸の奥が微かに冷えた。*大広間の扉の前で、私はアルヴィス様と合流した。彼は白と紺を基調とした正装だった。 肩から下がる緋色のマントに、帝国の紋章が縫い取られている。 普段の穏やかさとは違う、皇太子としての威厳を纏っていた。「――待たせたか」「いいえ。今来たところです」私たちはしばらく、互いの姿を見つめ合った。「よく似合っている」「アルヴィス様も」「緊張しているか」「していないと言えば、嘘になります」私は正直に答えた。彼はそっと私の手を取った。「昨夜、話した通りだ」彼の声は静かで、揺るぎなかった。「答えの出ない問いを抱えたまま進む。それを今日、実際にやるだけだ」「はい」「行こう」
七日間はあっという間に過ぎた。招待状の手配、式次第の確認、衣装の最終合わせ。 目まぐるしい準備の合間にも噂は形を変えながら流れ続けていた。 それでも私たちの足取りが揺らぐことはなかった。 宮の廊下は連日、荷を運ぶ従者たちの足音で賑わい、庭師たちは会場となる大広間の花々を、朝な夕なに手入れしていた。 マルグリット夫人からは、直前まで細かな作法の確認が続き、私の頭の中は、もう覚えるべきことでいっぱいだった。*発表前夜、私は寝室の窓辺に座っていた。明日のことを考えると、指先が微かに冷たくなる。 大陸中から集まった使者たちの前に立つ。 その光景を想像するだけで、胸の奥が締めつけられた。 月明かりが、窓辺に置かれたランプの灯りと混じり合い、部屋の中に、淡い二重の影を落としていた。扉が静かに叩かれた。「――ヴィオレット。起きているか」「はい」アルヴィス様が部屋に入ってきた。 燭台を持たず、月明かりだけを頼りに歩いてきたのだろう、その足取りには、慎重さがあった。寝間着の上に上着を引っかけただけの、簡素な格好だった。 あの眠れない夜と同じ姿だった。「眠れないか」「少しだけ」彼はいつものように床に座った。「椅子を持ってこさせればいいものを」「この時間に人を起こすのは悪い」そのやりとりさえ以前と同じだった。 けれど、あの夜とは何かが違っていた。 あの夜は不安の質そのものが分からなかった。 今は、その正体が、はっきりと形を持っていた。窓の外、庭木の影が月明かりの中で静かに揺れていた。 虫の音が遠く、途切れることなく響いている。 その規則正しい響きが、かえって、部屋の静けさを際立たせていた。「明日のことを、考えていたのか」「はい」私は正直に頷いた。「怖いのは、大陸中の視線ではないんです」私は続けた。「